『伊達政宗と会津米沢街道』を受講して
鈴木敏秀
大方の予想とは打って変わって、梅雨の晴れ間に当たった気持ちの良い屋外講習となりました。バスは一路最初の目的地が集まる桧原集落へ向い、見慣れた五輪塔の前から今日の講習が始まりました。講師は当村きっての歴史研究者、渡辺新一さんです。かなり以前に同じような講習を受けたことはありますが、現地での講習は初めてで、やはり歴史の舞台となった現場に立ってのお話は臨場感もあり、その上当地の言葉でお話をされる渡辺さんからは温もりが感じられ、まるでその時代から史実を伝える使者の方が現れたかのような錯覚を覚えました。
五輪塔は、水没した旧桧原集落から桧原湖の水位が下げられた折に村人達が引き上げた穴沢一族の墓標、村人の穴沢氏に対する想いが感じられます。桧原は当時金山・銀山が掘られ、全国各地から採掘の技術者や人夫が集まり、桧原千軒とまで言われたほどの賑わいを見せていたとか、冬の厳しさや湖底に沈む旧桧原集落を思うと現在からは想像できません。また崇徳寺の馨子と双盤からは当時の響きが聞こえてくるようです。
小谷山城跡入口に向う途中、大山祇神社の絵馬が心無い者によって盗まれているという話を聞き、早く保管整備の体制を整えて欲しいものだと感じました。小谷山城跡へは標高差 150 mの割合と急な登り道を一気に上がりましたが、参加者は自然にも造詣の深い方々が多く、途中ではミニ自然観察会も開かれていました。小谷山城は伊達政宗が会津領内に築いた唯一の城、深く巡らされた空掘りを巻き登り本丸跡で、執拗に桧原攻略を企てる伊達軍と、それを死守せんと葦名氏の命を受けて戦う穴沢一族との攻防の話を聞くにつけ、兵どもの雄叫びまでもが聞こえてくるかのようでした。その後、桧原を攻略した伊達軍は眼下の米沢街道から何度となく大塩を伺ったものの、大塩に攻め入ることは出来なかったということです。街道の要所でバスを止めては説明を聞きながら、群雄割拠の戦国絵巻の一コマがこの道を舞台に繰り広げられていたことを思うと、ここで学んでいることの重みを感じずにはいられません。
それにしても、文明の発達した今でさえも冬のあららぎ峠や萱峠を越えるのは大変だというのに、当時の人は徒歩でそれも今のような防寒着はなく、どのようにして冬の山道を越えていったのでしょうか。桧原峠を越え、綱木への道に至っては更に険しく厳しい道を取らなければならず、これも私にとっては全く想像の範囲を超えたものです。また、中ノ七里塚の上にある物見岩に潜む山賊の話も当時の旅の厳しさを思わせるものでした。
大塩柏木城跡については勉強不足でその存在すら知らず、恥ずかしい限りです。誠に立派な城であった様子がうかがえ、地形がほぼ原形をとどめているのは大変稀だということで文化財として整備することを望むものです。芦名氏側からは伊達政宗に対して米沢街道筋からの侵入を防ぐ要衝として存在したものの、伊達氏の策略にかかり芦名氏が敗れた為築城から僅か 5 年でその使命を終えるという短い歴史だったことは、当時の目まぐるしく移り変わる力関係をそのまま物語るものでしょう。
今回、米沢街道の桧原大塩間を舞台に繰り広げられた戦国時代末期の領地の取り合いという観点から歴史を学ばせていただき、磐梯山噴火によってできたいわゆる高原としての裏磐梯のみにあらず、私達の村で起きた歴史という事実に目を向け、思いを巡らせることができたことに感謝しております。そして、この時代に限らず、いったいどのようにここに人々が暮らし始めたのか、その生活は如何だったのか、そして戦乱の世が終った後の桧原・大塩はどのような暮らしになっていったのか、更に知りたいという思いに駆られているのは私だけではないと思います。
今回の講習のために、史跡などの周辺の藪の刈り払いまでして下さった渡辺新一さんのご配慮に、心から感謝いたします。ありがとうございました。
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